FUJII‘s creation memo~藤井 博創作メモ

他のページで述べたように、藤井 博に関する論評、また彼自身が述べた考察の資料が、あまりに少なく藤井 博本人を説得し、了解と資料協力のもとに、ここに掲載させて頂く事にしました。

藤井博本人が過去に語った創作に関するメモ、文章、などを随時掲載予定。それらを通し、彼の姿勢や考察、思想、作家性の参考資料となれば幸いであります。 

    

    

WEB 極北の表現 藤井博製作委員会

 

 

 

 

 

  

「藤井博―榎倉宅 ・ 展、浮遊する視線性は・・・・‘09.11」のためコメント

このところ「みること、みえること」を主題に仕事をすすめているが、今回はその起点として榎倉宅の庭、故榎倉 康二氏の視像、作者藤井の仕事場の物々とその近くの風景などが具体的モチーフとして、とりあげられて進められている。

その方法、形式をもって具体的な作品として現れる予定であるが、どこまでそれが現れるのか?

キャンパスに油彩とささやかなインスタレーションで行う。

 

‘09.11.3  藤井 博

 

 

 

「もの派の外部性」について

2009.8に「藤井 博~極北の表現」の 立ち上げの為に、WEB 極北の表現 藤井博製作委員会から「もの派の外部性」と言われている事についての問いへの、藤井博からの返答メモからの抜粋。

 

もの派の外部性とは、(―美術の外部性でもあるが―)。

それは、「もの派」と関係ないところということではもちろんなく、また「もの派」のもっとも目的とする(真性の)特質を担い持っているといことには及ばない、違っているということでもなく、「もの派」というものをかたちづくっている、ざるえない(さまざま問題の内の最も根源的、本質的な)理由、原因でもある領域である。もの―物―物質・物体の世界と人の心的世界の根底とは相い混じり、相関し合う領域である。

 

 

 そしてそこには、非人間的世界であり意識、主体、自我、言語等々のいまだなく、それらの基盤でもある(存在そのもの―我々を存在そのものへとされている世界)。そこはそれらは(主体等)のものを発生せざるをえない契機があり母体であり発芽があるであろうが、そこからひとは人間的なるものに移行するにあたって、その存在そのものの本質のひとつ(自然のこうてい性の他に)として刻印されている暗く耐えがたい何ものかをどのような形として忘れずに保持していけるのか?我々の歴史は、このことについて、たとえようもない困難を教えるが、これは本質的不可能性なのか?(本質的不可能性としか現れない何ものか、なのであろうか)。

                                      2009.8 藤井 博  

 

 

 

 

【補足・解説】 藤井の仕事、特に第1期のそれらは、 よほどの人しか気付かれることもなくとも、力およばずとも可能な限り、彼が上記で述べている領域にくい込み、そこから発信されている類まれな仕事であったのであろう。それはいわいる「もの派」の人々の仕事より物に徹底的にくい込んだものでり、彼のような仕事は、一見それらに似ているようだが、いわいる「もの派」にはくくれなかったのであろう。それは、それらよりも根源領域に入り込んでいたからではないだろうか。 

また「もの派」への彼の考察は、 『藤井 博 作品 ・ 集』の中の彼自身による文章 (「物の思考」と「物―身体―みること」について)で詳しく述べられているので興味のある方は是非一読される事をお勧めする。       

WEB 極北の表現 藤井博製作委員会 R.F